生保労連(全国生命保険労働組合連合会)は生命保険会社の営業部門・事務部門に働く労働者25万人(19組合)を組織する労働組合です。

生保労連のつなげる、つながるブログ

連合ボランティア第23陣

こんにちは。政策局の新井です。

今回は連合派遣ボランティア第23陣として、岩手県陸前高田市の広野地区で活動してきました。

生保労連としては、この第23陣が最後の連合ボランティア派遣となりました。(連合は9月末で収束)

震災前の陸前高田市は1万本の松原がある風光明媚な街でしたが、震災による津波のため、たった1本を残して全て押し流されてしまいました。また、震災からちょうど半年経過しましたが、街も瓦礫の山がいまだ数多く残っており、急ピッチで搬出が行われていました。

今回の活動は、気温30℃、湿度90%にも達する厳しい残暑の中での作業となりました。

活動前半は主に民家跡の草刈り・瓦礫の撤去でした。背の高さを超えるような草・木、大人1人では持ちあげられないほどの重さの流木、石、瓦、コンクリートなどの瓦礫が多くあり、初日から悪戦苦闘しました。

トラックへの瓦礫積み込み作業

活動後半は、公民館跡地で瓦礫の撤去でした。私たちの活動終了日翌日に祭りを開催するため、子どもたちが安心して遊べるようガラスやコンクリート、石などを撤去して欲しいとの要望があり、「子どもたちのために」と疲労が蓄積している中で、メンバーが今まで以上に一丸となって活動を行いました。

私自身は連合のボランティア派遣は2回目となりましたが、この2回を振り返ってみて、少しでも被災地の皆さんのお役に立てていればと思うところです。

被災地は未だ復興半ばですが、1日も早い復興と、震災前よりも発展することを祈念いたします。

全作業終了後に第23陣のメンバーと

岩手県陸前高田市・大船渡市でのボランティア活動

労働局の堺です。連合派遣ボランティアの第22陣として、9月上旬に岩手県陸前高田市・大船渡市で活動してきました。

活動初日は朝から雨模様でしたので、陸前高田市での活動を回避し、大船渡市で活動を行いました。陸前高田市では地盤が沈んでしまっているので、雨が降ると海面が上昇し、危険な状況になってしまうのだと聞きました。この日は雨がそぼ降る中、海辺に近い幹線道路脇の側溝につまった土砂をスコップとつるはしで取り除く活動を行いました。土砂を掘り返していると、アワビや牡蠣の殻がザクザクと出てきます。養殖場が近かったのでしょう。漁業への被害も甚大だったと思います。

翌日からは天気が回復し、陸前高田市で活動しました。活動場所は海風が吹き抜けるので涼しさを感じますが、連日30度越えの炎天下です。ボランティアセンターの看護師さんから熱中症対策の指導を受け、20分活動10分休憩のターンを繰り返しながら、自分の体力と相談しつつ、活動を行いました。

活動2日目は荒れ果てた田んぼの草刈りとがれきの撤去です。すぐ近くでは、鉄道の線路が盛り土ごと流されてしまっており、津波の威力を物語っています。田んぼの持ち主の方は無事でしょうか。

活動3日目と4日目は、内陸部の高台にある地元企業の資材置き場の撤去を手伝いました。そこは仮設住宅の建設予定地に指定されているとのことです。日頃はパソコンの前にかじりついている自分も屋外の作業にすっかりとなじみ、きびきびと身体が動くようになっています。

活動最終日は、小さな入江にある農家の片付けの手伝いです。作業中にふと上を見上げると、高さ数メートルもある木の枝に衣服が絡みついています。それ以上の高さまで水がきたということです。ぞっとします。

活動場所への行き来はバスでの移動となりましたが、車窓から見る景色には時折見慣れない光景が映ります。そこにあるはずのないものがゴロンと無造作に置かれたような光景、またそこにあるべきものが根こそぎ持っていかれてしまって、不自然なほど何もない光景。そこに何があったのか、誰が生活していたのか、被災前の写真と見比べることでようやく想像を補うことができます。

被災した方の体験談を聴いたり、被災地を歩いたり、廃墟に立ったりしましたが、自分の体験を人に伝えるのは難しいですね。被災した方々の経験や思いをくみ取って、また人に伝えるということができるかと問われれば、私には難しいな、できないな、と思います。せめて、自分が見てきたものを、天災の破壊力の大きさと爪跡を、自分が生活する地域の、職場の防災に生かしていくことが務めと思い、これから役立てていきたいと思います。

救援ボランティアを通じて感じたこと

こんにちは、組織・社会政策担当の近藤です。

6月11~19日にかけて連合救援ボランティア第10陣が派遣され、生保労連からは広報・社会政策を担当する長﨑委員長と私が参加しました。

前半は多賀城市で側溝の掃除を行い、後半は名取市と石巻市でガレキ撤去などの作業を行いました。

名取市では、カーネーション栽培を行うビニールハウス内にたまったヘドロやガレキを除去する作業を行いました。栽培していたカーネーションはすべて津波でなぎ倒され、岩のように硬い泥が畑全体を覆い、農業の経験がない私から見ても、元の状態に戻すには長い年月が必要であることが分かりました。

津波の被害を逃れて残った花を刈り、畑の骨組みを壊していく作業は本当に胸が痛み、作業に関わった全員が悲しい気持ちになったと思いますが、依頼主の方が復旧・復興に強い意欲を持たれており、私たちの心をいつも奮い立たせてくれました。

作業をしている時に、他のボランティアの方が、「これはゼロではなくマイナスからのスタートだから頑張らないといけないんだ。」と話していましたが、まさしくその通りで、何も無い場所に畑を作るよりもはるかに大変な作業だからこそ、私たちボランティアが必要とされているのだ、ということを痛感しました。

ボランティア期間中は、大部屋で寝泊まりし、他の産別の方々と朝から晩まで行動を共にするという、貴重で得難い経験をさせていただきました。

これからも被災地で感じたことを忘れず、日々の仕事の中で復旧・復興に繋がることを続けていきたいと思います。

↑名取市のボランティアセンターには手づくりの可愛い看板がたくさんありました。

5年後に、必ずや“観光”で!

みなさん、はじめまして。労働局(営業職員委員会担当)の小島です。 

この“ブログ”を楽しみに?ご覧いただいている方々は既にご承知かと思いますが、現在、生保労連では、被災地の復旧・復興に「少しでもお役に立ちたい」との思いから、連合を通じたボランティア活動に参加しています。わたしも6月3日~11日までの9日間、大隈副委員長(前半)、早川副書記長(後半)と共に宮城(仙台)に行ってきました。連合としての派遣は、第9陣目になります。(わたし自身は、ボランティア初体験です)

「班長」として・・・

活動地区は、これまでもブログで紹介のあった亘理町です。活動初日・2日目は側溝のヘドロ等を除去する作業です。

第9陣「第1班」の仲間たち

当日は土日ということもあり、個人の方を含め、多くのボランティアの方々が各地で活動していました。側溝には、津波で流された様々なものが混在しており、それらも含めて取り除く作業は、想像していたよりも重労働でした。

活動中は、基本的に班単位で作業にあたります。なぜかわたしが「班長」に任命されましたので、右も左もわからない中で、少しでも頼りになる班長をめざして奮闘しました・・・

9陣目にして初めての墓地清掃

3日目以降は、墓地に流れ着いた泥や砂利、ガレキ等の清掃作業です。多くの墓石が破損、倒壊している状況の中で、「せめてその周辺だけでも元の状態に戻そう」との思いで、計4日間の活動を行いました。

活動中、残念ながら破損してしまった墓石に手を合わせているご家族を何度か見かける機会がありました・・・。「ご先祖さまにご自身の無事を知らせている姿」なのか、それとも「被災し、他界されたご家族をお守りくださるようお願いしている姿」なのか・・・。

こうした姿を見ていると、何とも言いようのない気持ちになりましたが、一方で、こうしてお墓参りに来ることができる状況になっているということは、約3か月という時が経過する中で、生活の面でも心の面でも、少し落ち着いてきているのかもしれないとも感じた次第です。

墓地での清掃作業

仙台のみなさんのたくましさを痛感

ボランティア期間中は、毎朝8時30分頃にベースキャンプ近くの北仙台駅をバスで出発し、活動地域のボランティアセンターに向かいます。この時間帯は、通学途中の学生達や通勤途中のサラリーマンの方々、特に仙台は自転車通勤をされている方が多いのですが、みなさん颯爽と元気に活動してらっしゃいます。

また、夜の仙台はというと、これもまた明るく元気に語らい合っている姿が多く見られます。それが奥さん・旦那さんへの不満?なのか、上司の愚痴??なのかは分かりませんが・・・

たとえご自身やご家族が無事であっても、親戚や友人・知人といった方々の状況を含めると、ほぼ全ての方が深い痛みや悲しみを抱えていることは容易に想像できますが、そうした状況にあっても、明るく、力強く歩まれている姿が強く印象に残っています。

オール・ジャパンで復興を

9日間という短い期間ではありましたが、被災地の惨状を目の当たりにし、その復旧・復興に向けた活動に携わることができたことは、とても貴重な体験でした。

今回の活動では、個人宅のお手伝いをする機会はありませんでしたが、ボランティアセンターのみなさんや連合宮城の方等とお話する機会をたくさん得ることが出来ました。その中でみなさんがおっしゃられていたのが、「何とか5年間で再生する」という強い思いでした。

私自身、一人の“日本人”として、生保労連・連合を通じた諸活動への参画や、個人的に出来る事をしっかりと行い、5年後に“観光”で仙台を訪れたいと強く願っています。

<亘理町災害ボランティアセンター>

http://msv3151.c-bosai.jp/group.php?gid=10115P

宮城県多賀城市・亘理町の救援ボランテイア活動

皆さん、こんにちは。労働局の内勤職員委員会担当の本間です。

 私は、5月26日~6月2日まで連合のボランテイア救援派遣として、宮城県内で活動してきました。生保労連としては、今回で4回目の派遣となり、前半3日間は多賀城市で、後半3日間は亘理町で活動してきました。

 前半3日間の活動拠点、多賀城市は、宮城県の東部に位置し、724年(奈良時代)に陸奥国国府として栄えた、人口約63,000人の都市です。(「多賀城」は城址公園として整備されています。)

 仙台市からもJR仙石線で約20分と近郊に位置している他、仙台港も近い風光明媚な地域です。今回の震災では、187人の方の尊い命が奪われ、約4000件の家屋が損壊しました。私が今回作業を行ったのは、仙台港のすぐ近くに位置し、被害が特に大きかった、宮内地区という地域です。

 作業内容としては、家屋の前や脇に敷かれている側溝内の清掃作業でした。側溝内には津波が運んできた土砂をはじめ、近隣の家屋から流れてきた食器類や食材等、様々な物がつまっていました。こうした側溝内に入っている物をスコップですくいあげ、土嚢袋に入れていく作業を行いました。

 周囲の状況として、家屋は激しく損壊しており、住民が全く生活することができない状態でした。そのため、地域内の住民は現在避難所に移っており、時折、必要な荷物等を取りに自宅に戻って来られる方の姿を目にしました。

 また、作業を進めていた際に1匹の飼い猫を目にしたのですが、元の家に飼い主の姿はなく、自分の飼い主を捜し回っているようでした。そのため、人恋しかったのか私たちが作業をしている姿をじっと見守っていました。猫の姿を見て、とても切ない気持ちになったのですが、「地域の復興と再生に向けて、少しでも役に立っていきたい」との気持ちを強く持ち、作業を精一杯進めていきました。

 多賀城市での作業の最終日には、市の社会福祉協議会の会長から涙ながらに感謝のお言葉をいただき、大変嬉しく感じるとともに、「地域再生に向けて、今後も可能な限りの協力を行っていきたい」と強く思いました。

 

 後半3日間は、宮城県南部に位置する亘理町で作業を行いました。亘理町は、仙台市街からJR常磐線で約30分と近郊に位置しており、比較的温暖な気候を活用してイチゴの栽培が盛んに行われている地域です。

 多賀城市と同様、津波の被害も大きかった地域の一つであり、今回の震災では、255人の方の尊い命が奪われてしまいました。しかし、今回の震災では、町内を走る高速道路が防波堤の役割を果たし、津波による被害の拡大を防ぎました。この高速道路は、「仙台東部道路」という、仙台市街と福島県相馬市等、太平洋沿岸地域を結ぶバイパス道路です。海から約3キロ程離れた地点に建設されており、この道路の海側とその反対側とでは被害状況は全く異なっていました。

 私が今回作業を行った地点は、海側に位置する吉田地区、長瀞地区という地域です。

両地域とも、数多くのイチゴ農家が軒を連ねており、時折、カッコウの鳴き声も聞こえるのどかな地域でした。今回の震災で、農家のビニールハウスが損壊したり、土砂が田や畑に流れ込んだりと大きな被害を受けていたのですが、地域住民は自宅に戻りながら地域社会や日常生活の再生に向けて、懸命にご努力されていました。

 後半3日間も、側溝内の清掃作業に従事しましたが、多賀城市での作業と異なり、ビニールハウスのパイプや袋に入った肥料等、引上げに苦労する物が大量に側溝内に入っていたため、大量の汗をかきながら大型スコップを活用し作業を進めました。時折、地域住民の方から冷たい飲み物を差し入れていただくなど、住民の方と触れ合いながら作業を行うことができました。また、6月1日の作業終了時には、暖かいうどんを差し入れていただき、身も心も暖まりました。(驚いたのは、うどんの中にツナが入っていたことです。ツナの油がつゆの味を引き立てていて、とても美味しくいただきました。)

  多賀城市、亘理町両地域とも、海から2~3キロ圏内に位置していることから津波の被害は甚大で、震災から3か月以上経過した現在でも倒壊家屋やガレキ等は片付けきれていません。報道では知ることのできなかった震災の惨状や、地域の復興と再生に向けて懸命に努力されている地域住民の方々の様子を体感することができ、本当に貴重な経験になりました。今回の経験を活かし、「被災地域の復興に向けて貢献していけるよう、懸命に努力していきたい」と強く感じています。共に頑張りましょう!

同じグループのメンバーと(撮影場所:多賀城市宮内地区)